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HPリニューアル&「Hear my song」


WAOのホームページをリニューアル致しました。

SNS発信に並んで、ホームページでの情報発信も強化していこうと思っています。

 

普段であれば、ワークショップの開講情報と、まもなく行う予定であったオーディションの情報解禁をしている時期かと存じますが、昨今の社会情勢を鑑みて、両方のプロジェクトについて、進行の中止を余儀なくされています。

 

この期間にWAOでは「eミュージカル」なるものを企画し、2つの作品を配信致しました。

「Hear my song」と「無人島deサバイバル」という、全く毛色の異なったコンセプトに端を発したオリジナルミュージカルです。

 

「Hear my song」は、とある1組の男女の物語を、大劇場ミュージカルで活躍する俳優がリレー形式で紡いでいく形式となっています。「画面越し」の恋愛は、もはや我々(20代中盤、ゆとり世代)にとってはスタンダードなものになっていますが、2020年4月に発令された非常事態宣言下においては、そのインダイレクトなコミュニケーションが、多くの場所・世代間で強いられ、「リモート会議」から「リモート飲み」まで、目まぐるしいスピードで社会全体に溶け込んでいました。むしろ、この社会のあり方が、リモートの中に溶け込んでいるという状況が、正しい表現かも知れません。

 

さて、「恋人と話すために家に電話をかけ、受話器の向こうの家族をかわして愛しい人に辿り着く」というシチュエーションは、携帯電話普及の前にはありふれたものだったそうですが、一人一台がスマートフォンや携帯電話を持つ現代においては、昭和チックな懐かしさを覚ます。更にその前の世代は手紙ですから、壁は一層高く厚かったと考えられます。

「手紙」「電話」「リモート〇〇」というツールの変遷をたどると、それは、相手の身体性への追求の過程だと言うことができるでしょう。筆跡、声、映像に、相手の物理的な特徴を認めることによって、個人を同定し、心を寄せていく。これは紛れもなく、本当のコミュニケーションが、顔を合わせて行い、同じ空気のなかで五感を触れ合わせるという部分に本質があるからこそ起こる一連の作用です。そして、コミュニケーションの本質が直接触れ合うことにある以上、どんなに技術が進歩しても、それ以外の方法は代替に過ぎず、取って代わる存在には成り得ないという事が言えます。

 

「Hear my song」に話を戻しますと、この物語は、先述の通り、「SNSネイティブ」と言うべきでしょうか、そうした実社会とネット社会との境界が希薄化・消失した世代が主人公であるように思います。「じゃあまた明日」と言った3分後には、お互いにLINEで会話をしている世代です。私の学生時代には「話さないのに、電話を切らずに寝るまでつないでいる」女子高生などが社会問題のように扱われていましたが、それはまさに、この世代に(メタ化されずに)共有されている体験なのです。

 

では、彼らのそうした体験のベースはどこにあるのかを考えましょう。一見、「SNSネイティブ」にとってはネット社会が身の置き場である、というような認識をされてしまうことがありますが、実際には真逆です。彼らは、相手の身体性を求めるあまり、空間的に離れている時間にあっても、その声や映像を求めて、出来る限り忠実にその像を再現しようと試みます。強烈なリアルの存在が、バーチャルへの欲求の原動力となっているのです。そのため、おそらく、恋人や親友のほうが、学友や会社の知り合いなどよりも遥かに、バーチャルでも「会おう」とする回数が多いのではないのでしょうか。とすれば、先述の「電話体験」は、決して世代に特有の社会現象ではなく、手紙から進展を遂げたツールを介したコミュニケーション本質の発露に過ぎないと言えるでしょう。

 

つまり、この世代が特にそうした欲求が強いわけではなく、コミュニケーション本質に近づくツールに対して、ネイティブ度が高い、そういう世代なのだと考えられます。実際、テレビ電話などは、いままでも世代を超えて普及しており、「孫の顔をみたい」年配の方が、タブレット端末を介して孫に「会う」ことは珍しいケースではありません。欲求がある限り、ツールを用いてそれを最大限実現しようとするのは、人間本質にほかなりません。

 

そうした観点から「Hear my song」は、世代を超えて共有できる価値観を描いていると言えるでしょう。つまり、我々は、どんなにツールが発達して、電話やLINEやビデオ通話でコミュニケーションの疑似体験が可能になったとしても、常に本質たる直接コミュニケーションを求めているのです。ツールを介して生まれる特有の感覚や感情があるにせよ、その目的は相手の身体性にあります。そしてそれは、相手の生命を感じることだと言い換えることが出来ます。身体性の証左が、まさに生命が存在して残す痕跡にあるからです。

 

つまるところコミュニケーションの本質とは、相手の生命を感じることなのです。相手の鼓動に触れることで、人間は初めて心を落ち着かせ、安心を得るのです。

 

作品の最後の曲は「春」というタイトルですが、春はまさに生命の息吹の季節です。演劇界は、桜の咲く3月中旬頃から劇場を封鎖し、初夏の香りが漂いつつある今も、公演再開の目処が立っていません。これはまさに演劇の冬の時代と呼べるのかも知れませんが、最後に、これが「演劇の死」ではないことを強調したいと思います。

 

というのも、もしもそれが「死」であれば、リモート配信やオンライン演劇はもはや存在し得ないのです。劇場体験というリアルなコミュニケーション本質が、今もなお純然と人々の中に輝いるからこそ、それらが存在する価値を持つことになります。つまり疑似体験を提供するツールを介して、演劇の「鼓動」に触れたいという欲求を満たす試みが、リモートやオンラインでの演劇だと言うことになります。演劇が求められる限り、そして副次的にこうしたリモートでの活動が求められる限り、演劇は決して死んではいないのです。

 

だいぶ飛躍してしまいました。また「無人島deサバイバル」についても、同様の解説を展開したかったのですが、今回はこのあたりでおしまいにさせていただきます。

 

ものぐさなもので、こうしたブログは何度も挫折しています。年に1回とか、2年に1回の更新頻度になる可能性大ですが、気が向いた時には、なにか書いていこうと思っています。

 

皆様どうか、引き続きご自愛くださいませ。

 

國武逸郎